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旧制和歌山中学校から和歌山県立桐蔭高等学校へと受け継がれる和中魂

現代語訳MODERN TRANSLATION

『和中魂』現代語訳 PDFファイル

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【監修】
 松村巧(和歌山大学教授)

【編集委員会】(五十音順)
 岸田正幸
 北原正明
 鈴木晴久
 藤下法紹

『和中魂』現代語訳 テキスト

一頁右
私は以前、我が校の四年生、五年生のために、漢文の助字用法の授業に役に立つものを選び、それを集めて一冊の本にして、『漢文必携』と名付けた。近頃、府瀬川先生が、私にこう言った。「私は、既に英文一篇を書き上げ、それによって英語の用法を明らかにした。生徒たちに課すれば、本当に役に立つことが多いはずであろう。そもそも漢文は英文と同じようなものである。あなたは前に生徒のために『漢文必携』を著されたが、それならばやはり、さらに一文を書いて、その用法を明らかにされるのがよろしいでしょう。そうでなければ、効果は少ないでしょう。」と。
そもそも漢文の用法は複雑で多様であり、一篇の文章でもって全てを言い尽くすことが出来るはずはないので、今、私はこの文章を短い文章に留めようと思っているが、それで不都合はないだろう。

一頁左
まして、下手な文章しか書けない私のような者にとってはなおさらのことだ。
そうではあるが、そもそもこうした文章は無いよりはある方がましだろう。若い生徒にとっては、必ず何らかの利益になるのではないだろうか。そこで、下手な文章であることも顧みないで、書き付けてその責任を果たし、また、学生たちを励ますのである。学生諸君が、これによってますますその志を励まし、ますますその行動を磨けば、ためになる点があるのではないかと期待している。その文章の書き方や文字の使い方にいたっては、もとよりこだわるところがあるのは免れない。しかも漢文の用法はこれに尽きるわけではない。しばらく、そのあらましを取り上げたに過ぎない。あなたたち読者が一端を見て、漢文の全貌を評価することが無ければ、何にもまして幸せなことである。

我が紀伊はどのような国かといえば、南海の要衝にあたっており、大きな海に洗われている。昔から優れた人物や大学者で世間に知られる者もやはり少なくなかった。私はこの地に生を受けたからには、その由来を知らないわけにはいかない。
人々は事あるごとに、山河の素晴らしい所には素晴らしい人物が生まれると言う。

二頁右
熊野の険阻な風景はもとより絶景であり、和歌浦の風景はもとより風光明媚である。天の恵みとしてこのようなものがあるからには、それこそが天が優れた人を生み出した理由なのではなかろうか。
(けれども)私は素晴らしい風景が必ずしも優れた人を生み出すわけではないと思う。反対に、山河というものは優れた人によって世に知られるようになるのである。豊後の邪馬渓は、頼山陽の筆によって知られるようになった。伊州の月瀬は齋藤拙堂の文章によってその名を知られるようになった。そして、あのだだっ広く何の特徴もない濃尾平野が、まさに織田信長、豊臣秀吉の二人の公を世に出したではないか。こう考えると、優れた人や大学者が世の中に現れるのに、どうして別の理由がないはずがあろうか。(それ以外に理由があるはずである。)

二頁左
思うに、神代の時代ははるか彼方のことであるから、今しばらくは置いておくとして、神武天皇が我が地に入られてから既に二千五百八十有余年が経ったところだが、(神武天皇が)攻められた者はたちまち破れ、討たれた者は直ぐに服従することとなった。名草戸畔を誅殺したこと、高倉下が逆らうことを止め従ったこと、神剣が天から下されたこと、金色の鳶の不思議な瑞兆など、その上古の歴史に見えるものは枚挙にいとまがない。神功皇后の三韓征伐は事実としては武内宿禰の献策によって成功したが、宿禰は実は名草山のふもとの人である。源判官義経の武勇は、実際は武蔵坊弁慶が関わっているけれども、その弁慶はとりもなおさず熊野の山中の人である。してみると、優れた人物や大学者が世に現れるのは、まさしく(太公望を世に出した)文王のような人が現れるのを待って、世に送るということである。
孟子が言っている、「古い伝統のある国というのは古くからの高い木があるということをいっているのではない。(その国と杞憂を共にしながら代々仕える家臣がいるということである。)」と。紀伊国もやはり伝統を有する国であり、

三頁右
畿内ののどに位置し、天皇のお住まいの垣根となっている。昔は、四国から京に上る者はみな海路で紀伊国まで来て、それから京に入った。紀伊国はだからとりもなおさず南海にある官営の街道である。だから、国家の治乱興廃はほとんどこの紀州に関わりを持っている。思うに、和歌浦が早くから世間に知られていることや、熊野三山がとりわけ皇室に崇敬された理由は、やはりこの点にあるのであろう。だから紀伊国は、もともとの僻地である諸国とは異なっているのだ。ところが、優れた人物や大学者が世に現れた理由は、とりもなおさずまさか切磋琢磨の努力がそうさせたのに他ならないのではないか。ここまで考えてくると、誰もがこの紀州という地に生きている意味を思わずにはいられないだろう。
南北朝時代に、紀伊国の人々はほとんど南朝方に連なった。南朝の勢力が振るわなくなってもなお、最後の最後まで孤立した陣地を守り、共に滅んだけれども悔いを残さなかった。

三頁左
かの義勇王及び尊秀、忠義の二王の行動も、見るに値するものである。
時代が下って、元亀天正の時代なるとに、雑賀衆が織田信長に抵抗し、根来太田の党が豊臣秀吉に敵対したが、蟷螂の斧は、大きな車の進行を遮ることは出来ないとしても、やはり、どうしてこの国の人々の為に気を吐いた者ではないといえようか。
紀州藩の初代藩主の南龍公(徳川頼宣)は本当に優れた資質を持っていたから、この地を領土として授かる。優れた人物を招き、優れた学者を招聘された。例えば、李梅渓に命じて、父母状を書かせ、士大夫たちがお手本とする道とされた。こうして国ぶりは大いに盛んになり、国としての気風が大いに振るい、結局は南海の名藩となるに至った。
ある日、突然雨が降った。公は城門の上にある物見やぐらに登って、藩士が登城する様子を見下ろした。藪三左衛門は食禄二千石の侍である。家来を従えて、蓑笠に短い袴を身に付け、裸足でやぐらの前を通り過ぎた。

四頁右
公は近くにお仕えする家来に「あの三左衛門を見ろ。彼は幼い頃から細川三齋の指導を受けた。だから、普段からこのように自分を戒めている。」と言った。しばらくしてたまたま別の身分の低い家来の某が傘をさして、下駄を履いて来た。公はこれをにらんで、「私は、臣下が勇気があるか臆病者であるかによって主君がすぐれているか愚かであるかが分かると聞いている。ああ、どうしようか。私の臣下でありながら、このような意気地無しがいようとは。まことに我が国家の恥である。」と言った。そのままその家来の職を解いてしまった。こうして武士の気風は急速に改善され、人々はみんな自ら奮い立ったという。当時の武士の気風は本当にこのようなものであった。当然のことだであるよ、紀州藩がその当時、立派な侍たちの集まる所と言われたのは。
那波道園は造詣が非常に深く、自らの使命感は非常に重く、一言一言すべてが心の底からほとばしるものであった。みんな熱意がこもっていた。かつて、南龍公が、市川甚右衛門の屋敷に出向き、自分で備前長光の刀を手にとって死刑囚に試した。

四頁左
頭から股まで一刀両断してもなお倒れないので、刀の柄でこれを突いたところ少しずつ倒れていった。これがいわゆる立ち袈裟切りというものである。道園を振り返って「どうだ、唐土にもこのように鋭く切れる刃はあるか」と言った。(それに)答えた「私は唐土にもこのような刀があると聞いています。干将・莫耶がそれです。ただし、君主でありながらこのようなふるまいをする人は桀・紂と言います。そもそも他者を殺して喜ぶとすれば、これはとりわけ禽獣がやらない振る舞いであるはずです。ただ単に人が嫌がることであり、人が軽蔑するところです。未だ、君主でこのような行為をする者がいるとは聞いたことはありません。」と。南龍公は顔色を変えて、城に帰った。夜になって急に、道園を召し出して言った。「お前が昼間に言ったことをさらさら考えてみると、とりわけ道理にかなっている。私が過っていたのであろう。これ以上人を切ったりはしない。」と。ああ、その当時にあって、このような言葉を吐くとは、自ら厚く道を信じるのでなければ、どうしてこのようなことが出来るだろうか。

五頁右
南龍公は若い時、わがままに振る舞い、粗暴で憚ることがなく、教育係の安藤直次の忠言を立派に用いることができなかった。直次は力持ちであった。いつも南龍公の両股を掴んで放さなかった。南龍公はそれをどうすることもできなかった。年を取ってからも、その傷跡がなお残っていた。側近の者が、医師に命じて治療させようとした。南龍公が言うには「そのようにしてはならない。もし、この傷がなかったとしようか、そうであれば、私が今日の地位を保つことはあり得なかったのだ。私が五十五万石の領地を保てるようにした理由は、本当にこの傷跡のおかげである。」と。主君と臣下がお互いに磨き合うとは、このようなものである。士風がどうして、振興しないことを憂う必要があるだろうか。
有徳公(徳川吉宗)が紀州藩におられた頃、先代の人々の李派な功績を受け継ぎ、学問を盛んにし、武士たちを導いた。こうして、優れた人物や大学者がその前後に次々と出現したが、有徳公が学問を興隆されたのは、祇園南海と蔭山東門が実際にはその任務に当たったのである。

五頁左
南海は博学多才で、とりわけ漢詩にすぐれていた。十七歳の時、春分の日に、午の刻から子の刻に至るまでに漢詩を作る課題を出されたが、その時初めて五言律詩百篇を作り、大いに世の中の人々に賞賛された。しかしながら人々の中には(南海が)あらかじめ用意されていた原稿があるのではないかと疑う者もいた。その年の秋分の日に再び百篇の律詩を作ることを試した。素晴らしい才能とすぐれた着想がどんどん湧き上がるように出てきて、素晴らしい表現がどんどん出てきたので、人々は初めて感服した。韓の国の使者が来日した時、徳川幕府は南海を派遣して接待させたが、一晩で二十五首の詩を作り、韓の国の使者に贈った。韓の国の使者が驚いて言った「その書法は晋や唐の時代の名筆にせまるものである。」と。また、その画法は池大雅に伝授したが、大雅はこの伝授を得て、南宗画の第一人者となった。さらに高芙蓉のために印法を教えた。ついには、藩主から下賜された印影を集めた書物を贈与した。芙蓉はこれを得て、篆刻の開祖となった。その他にも、南海の余技が及ぶところといえば、洞簫という縦笛を演奏することで有名で、角力をとることでも人より勝っていた。どうも彼の才能は止まる所を知らなかった。祇園南海は漢学だけであったろうか(いやない)。

六頁右
ああ、偉大な人物であることよ。もし、彼が今日生きていたならば、思うに学術研究の大家であるとともに、スポーツ界の大選手であったかもしれない。そうでありながら、しかもこの人の邸宅の跡は我が校の西南の隅にある。特にその観雷亭は奇抜で素晴らしいことが世の中にsに知られているのである。振り返ってみると、我が校の今日の繁栄があるのはどうして偶然か。(偶然とはいえないのである。)
伊藤蘭嵎が初めて君主の前で経書を講義した。書物に向かい合うだけで講義をしなかった。侍従の臣下が何度も促したが、応じない。侍従は思った。「このひとは貧しい家に生まれ育ったので、これまで身分の高い人に教えることに慣れていないから、藩主の威厳のある姿を見てそんな風になってしまうのだろう。」と思ったと言う。候もまた、これを奇妙に思った。しばらくして蘭嵎がゆっくり言うことには「公は蒲団の上に座っておられるので、聖人の書物を講義することが出来ないのである。」と。候はこれを聞き、急いで蒲団から下りた。やっと初めて教典の講義をした。その発声は朗らかでのびのびとしており、論理は明瞭で完全であった。聞く人はみんな感動して誉め称えた「これこそ本当の儒学者だ」と。


六頁左
ああ、今日の学者にこのような気骨を保つ者は果たしているだろうか。
香厳と舜恭の二公は世の中が豊かであった時代に、民衆と一緒に幸福を享受された。(例えば)本居宣長を招いて、国学の典籍を講義させた。大平・内遠・諸平が相次いで国学を盛り立てた。天下に於いて国学を修める者は、一時期全てこの門下に集まった。ああ、何と盛んなことであろうか。このほか、山井崑崙、山本東籬、山本楽所、仁井田南陽のような人々は、それぞれ専門の学問によって名声を博した。崑崙の『七経孟子攷(考)文』、楽所の『論語補解』や『尚書正譌』、南陽の『毛詩補伝』、『紀伊國後風土記』はいまなお学界の人たちが大切であるとするものである。桑山玉州、野呂介石もまた、南宋画をもって世間で賞賛された。このほか、花岡隋賢の医学における貢献、畔田翠山の博物学における貢献は、今となっては一つ一つを記するには枚数が足りない。

七頁右
ほぼ、大略して、その概略を挙げるのみにした。昔から立派な人物が少なくないこともまたこれによって伺えるであろう。
天一坊の事について、私は述べるのをあまり快くは思わない。紀伊国屋文左衛門の業績もやはり賞賛する気になれない。この地の人でありながらこのような自分をひけらかすような気風があるのは、とりもなおさず天一坊や紀文の心に軽薄な気風が根を張っているのだろうか。そうではありませんか。私は、逆にこれを恐れている。諸君にもこれは見習ってほしくない。
維新の時、我が藩は幕府の親藩であるという理由で、しばしば世間から疑われた。ためらい、決断できず、立派にその志を遂げることが出来なかったけれども、ドイツ人を招いて、天下に先んじて兵制を変革したことなどにおいては、日本国に貢献した点は決して少なくないだろう。そもそも紀州藩が埋没して、世間からその名を聞くことは無くなった状況でも陸奥宗光伯が出現した。今、政界において名をなしている者はほとんど陸奥宗光伯のおかげを得て世に現れたのである。

七頁左
はてさて、この頃の学生たちを見ると、士気が沈滞していることでは、今日以上のことはなかった。暖かく着て、腹一杯食べ、歌ったり戯れたりしている。平素から学生たるの風格や節度をなくしてしまった。たとえ、学問に勤めている者であると言っても、利益を考え、損害を避けようとしており、結局自分の志を成就することがないのである。そもそも、昔の勇ましく雄々しい気風をもっている者はどれくらいあるだろうか。
以前はといえば、人里離れた素晴らしい山々に足を踏み入れ、風光明媚な趣をくみ取って、そうして、やる気を育て蓄えていたのが、今では堕落してしまい、歓楽や歌舞音曲の地となり、気ままで贅沢に過ごす巷となっている。
ああ、これをどうしたらよいだろうか、どうすることも出来ない。
『詩経』で「こんなことでどうしていいだろうか。君臣共に水に溺れる(天下が乱れるだけである)。」と言っているのはそもそもこのことであろうか。
このようなことがずっと続いて止むことがなければ、単にかつての雄壮な気風を残すことが出来ないばかりか、最後には跡形もなく滅び尽くして、やがて救うことが出来なくなるかもしれない。単に山河の精霊たちにき、かつての賢者や大学者の残してくれた徳を辱めるばかりではないだろうか。私は密かに、(このことを)非常に恐れているのだ。
八頁右
但し、我が校は校運が馬の疾駆するように盛んとなり、日進月歩し、教師も学生も勤勉に、それぞれ自分自身の学問を修めて、喜び楽しむがごとく、自分自身の学業従事している。私はこれを特に喜ぶべき事であるとしている。
今の奥校長先生が来られてから力を尽くし、思慮を尽くして学力と体力を増進する方法を考えられ、まだ数年も経たないうちに図書館が出来上がり、運動場が出来上がり、今、さらに、プールが出来上がった。
校庭の外に一歩も踏み出さなくても十分に走ることが出来る。球を投げることが出来るし、そうして泳ぐことが出来るし、剣を磨くことが出来るし、武道を鍛錬することが出来るし、今、また、読めなかった本を手にすることが出来る。まして、ボートを和歌浦に浮かべることさえもあるのだ。
しかも、諸先生方が一生懸命学問を講義し、それによって学生諸君を率いておられることがあるからにはきっと、学生の学力や体力が昔の人より倍増するに違いない。

八頁左
このように恵まれていながら、もし学力をますます進歩させないで、体力をさらに強化させていかなければ、どのような顔をして父兄に会うことが出来るだろうか。県人に対しても(あうことができるだろうか。)
一歩引いて思うに、明治三十六年十月八日、現在の天皇(大正天皇)が皇太子でいらっしゃった時、ご本人が我が校にご来臨され、兵式教練をご笑覧になった。大正十一年十二月二日、東宮陛下(後の昭和天皇)がご来臨された。授業と野球をご笑覧された。恐れ多くも皇族に野球の御観戦を賜ったのは、おそらく我が校が始まりであろう。ああ、いかなる光栄がこれに及ぶだろうか。かりにも我が校に学ぶ者はまたどうしてその歴史を思い慕わないでいられようか。
ああ、紀伊の国は、南海の要衝にあたり、大きな海が洗われている。山河の素晴らしい風景で我々の志気を養う者がある上に、
九頁右
優れた人物や大学者の後世に残したすぐれた教えや足跡も、やはり、我らの模範とするのに十分である。
しかも国家は今まさに人材を求めている大切な時期である。立派な男子は、いつか必ず自分の存在を認めてくれる人が入るに違いない。そうでありながら、今立ち上がらなければ、あいったい何時の日を待ってそうするというのか。
孔子は「私は未だに(仁の)力が不足している者を見たことがない(欠けているのは志だ)」と言っている。
孟子は「文王のような名君が出るのを待って、その後に立ち上がるような者は平凡な人である。そもそもかの抜きんでてすぐれた人々は文王がいなくても自ら立ち上がるであろう。」と。
いったい我が校に学ぶ者は全て我が国家に対して志を抱いている者である。
(だから)どうして、気力を奮い起こして、「和中魂」といわれているものを発揮して、先の優れた人物や学者の遺風を輝かせないでおられようか。千人の健やかな男子のうち、誰がこれを聞いて奮い立たなかったか分からない。(みんな奮い立つ。)
私は過去のことを見て、現在を思いはかって、この上ない感慨が迫ってくるのに堪えられない。
だから、わざわざ、優れた人材や大学者が出てきた理由を語り、それでみんなを励ましたい。
たとえ、古人がもう一度生き返ったとしても、きっと私の言葉を変えることはないだろう。
九頁左
私がどうしてたいして考えもせず、過去だけを讃えて今を非難するようなことをするだろうか。そこで校歌を歌おう。
海南茲(ここ)に幾春秋      千古竹帛(はく)花香留む
清風名節、我が表と爲し      自助の学園凝(こ)りて流れず
白菊郁々(いくいく)吹上の里   菊花の黌児、菊もて冠と爲し
和歌浦頭、濤(なみ)は碧に砕け  濤と共に闘う健児団
健児の意気天を衝けり       時世の風浪、また何ぞ遮らん
克己の影浮ぶは水月に似たり    希望の色光、色は花の若し
清流竭(つ)きず、紀川の水    蒼翠(そうすい)改まらず、伏虎山
晨夕懈(おこた)らず吾が學び   自彊して息(や)まず心もまた艱(かた)し
十頁右
黒潮蕩々と奔馬のごと駛(は)せる 古聖の夢、我が前程を通ず
義を見て勇、只吾のみあり     風浪時に傳ふ、神代の聲
海南茲(ここ)に群がる一千の子  進取行路は素より形なし
千草萬草、花は綾錦        名声永く薫る、自助の庭
大正十四年八月
                        多紀仁識

注(人物、地名等)

1.府瀬川司業 府瀬川熊司 旧制和歌山中学校の英語教師。「司業」は先生の意味。『WACHUPLAN FOR ENGLISH TEACHING』を著す。

2.光浦 和歌浦のこと。和歌浦一帯は「弱浜」(わかのはま)と呼ばれていたが、聖武天皇が景観の美しさから「明光浦」(あかのうら)と改めたとされている。(『続日本紀』より)

3.豊の耶麻渓 大分県中津市にある山国川の上・中流域及びその支流域を中心とした渓谷で、日本三大奇勝や新日本三景の一つに選ばれている。1923年(大正12年)に名勝に指定され、1950年(昭和25年)に耶馬日田英彦山国定公園に指定された。

4.山陽頼翁 頼山陽 1780~1832 江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人。主著に『日本外史』がある。『耶馬渓図巻記』は、斎藤拙堂の『月瀬記勝』と並んで紀行文の双璧とされている。

5.伊の月瀬 現在の奈良市月ヶ瀬に当たる。奈良県の北東端に位置し、村内を名張川が東西に流れ、渓谷の様相を呈している。梅の名所であり、見頃には多くの観光客が訪れる。2005年、山辺郡都祁村とともに奈良市へ編入されたことから消滅した。

6.拙堂齋藤子 斎藤 拙堂 1797~1865 幕末の朱子学者。紀行文が得意で、『月瀬記勝』は月ケ瀬を梅の名所にした。また、後南朝の名付け親としても知られている。

7.神武天皇 日本神話に登場する人物で、『古事記』、『日本書紀』では初代天皇とする。実在は確認できない。

8.名草戸畔 名草邑(現在の和歌山市)の統治者であったが、神武東征伝承において神武天皇に殺害されたと伝えられる。日本書紀に「軍至名草邑 則誅名草戸畔者〈戸畔 此云妬鼙〉」(軍が名草邑に着き、そこで名草戸畔という名の者〈戸畔はトベと読む〉を誅殺した。)とある。(「巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年六月」)

9.高倉下 『古事記』『日本書紀』ともに、夢で見た建御雷神の神託により、高倉下が神武天皇に霊剣布都御魂(ふつのみたま)を献上したところ、熊野の神の毒気によって眠らされていた一行がたちまち目を覚ましたという伝説を載せている。伊勢湾地域に拠点を置いた尾張氏の始祖、天香語山命の別名ともいう。

10.金鵄 金色のトビ。神武天皇がナガスネヒコと戦っている際に、天皇の弓に止まり、その体から発する光でナガスネヒコの兵たちの目をくらませ、天皇の軍に勝利をもたらしたとされる。

11.神后の征韓 神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争のこと。

12.武内宿禰 古代,大和朝廷初期に活躍したといわれる伝承上の人物。「記紀」によれば,孝元天皇の子孫,日本最初の大臣,神功皇后の新羅征伐に従軍し,景行,成務,仲哀,応神,仁徳の天皇に仕え,二百数十年間,官にあったという。

13.文王を待ちて興る者なり 『孟子』「尽心 上 十」


14.孟子曰く、故國とは、喬木有るを謂ふの謂ひにあらざるなり 『孟子』「梁惠王章句下 七」

15.熊野三山 熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称

16.義有王 後村上天皇第六の皇子説成親王の御子、円満院円胤と伝えられ、還俗名を「義有王」と称し、1444年7月、時の将軍足利義成に抗して紀伊国北山にて挙兵

17・尊秀忠義の二王 尊秀王は後南朝の最後の指導者、忠義王はその弟

18.雑賀の徒は織田右府に抗(あらが)ひ、根来太田の黨は豊太閤に敵す。 1577年の信長による雑賀攻め、1585年の秀吉による紀州攻めを指す。

20.蟷螂(とうろう)の斧、良(まこと)に隆車の隊(みち)に當(あた)るに足らずといへども、亦(また)詎(なん)ぞ、國人のために気を吐く者にあらずと知らむや。
『文選』巻四十四、陳琳・爲袁绍檄豫州文「欲以蟷螂之斧 禦隆車之隧」

21.南龍公 紀州藩初代藩主徳川頼宣のこと。謚(おくりな)が南龍公、院号が南龍院。

22.李梅渓 1617~1682 近世前期の朱子学派藩儒学者。1672年『徳川創業記孝異』を完成し、幕府に献上し、葛城山麓の梅原村(現和歌山市)を与えられ、梅渓と号した。

23.藪三左衛門 1596~1649 藪正利 近世前期の紀州藩の家臣。肥後の生まれで細川忠興に仕えたが、後、紀州藩に仕え、城代格、大寄合を勤める。

24.細川三齋 細川忠興、1563~1645 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代藩主となる。

25.那波道円 1595~1648 那波活所 近世前期の朱子学派紀州藩儒学者。林羅山、堀杏庵、松永尺五とともに。藤原惺窩門の「四天王」の一人

26.市川甚右衛門 1588~1664 市川清長 近世前期の紀州藩家臣。頼宣の供として紀州入国。後、城代を勤める。

27.備前長光 鎌倉時代後期の備前国(岡山県)長船派(おさふねは)の刀工。長船派の祖・光忠の子とされる。国宝の「大般若長光」をはじめ、古刀期においてはもっとも現存在銘作刀が多い刀工の一人

28.干将・莫耶 中国の剣の制作者。夫婦で剣を制作し、その名を冠した剣は名剣とされている。

29.桀紂 古代中国の、夏(か)の桀王と殷(いん)の紂王。ともに暴虐な君主。転じて、暴君のこと。

30.安藤直次 1554~1635 近世初期の紀州藩付家老。田辺領三万八千八百石

31.有徳公 1684~1751 徳川吉宗。紀州藩五代藩主、後、徳川幕府八代将軍

32.祇園南海 1676~1751 近世中期の朱子学派紀州藩儒学者。紀州三大文人画家の一人

33.蔭山東門
1669~1732 近世中期の古義学派紀州藩儒学者。伊藤仁齋に師事。1713年吉宗の講釈場創設時に祇園南海とともに総裁に抜擢される。

34.池大雅  1723~1776 近世中期の文人画家、書家。与謝蕪村とともに、日本の文人画(南画)の大成者とされる。

35.高芙蓉 1722~1784 近世中期の儒学者、篆刻家、画家。日本における印章制度を確立。印聖と讚えられる。

36.観雷亭 祇園南海の邸宅か、そこにあった建物の名か?祇園南海の号の一つに「観雷亭」がある。

37.伊藤蘭嵎 1694~1778 近世中期の古義学派紀州藩儒学者。伊藤仁齋の第五子。「四経」の解釈を完成。「大学」を容認する「大学是正」を著す。

38.香厳、舜恭 香厳は第九代藩主治貞、舜恭は第十代藩主治富の諡(おくりな)

39.本居宣長 1730~1801 近世中期の国学者・文献学者・医師。荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人」の一人

40.大平。内藤。諸平 大平は本居宣長の養子、内藤は本居大平の婿養子、諸平は加納諸平、大平の弟子

41.山井崑崙 1690~1728 近世中期の徂徠学派西条藩儒学者。『七経孟子攷文』32巻を著し、幕府、紀州藩、西条藩に献上、中国。清の『四庫全書』にも収録された。

42・山本東籬 1745~1806 近世後期の折衷学派紀州藩儒学者。藩校「学習館規則」を定め、『紀伊続風土記』編纂にあたった。

43.山本楽所 1764~1841 幕末の折衷学派紀州藩儒学者。山本東籬の門人。『孝経集伝』『偽書説』等を著す。

44.仁井田南陽 1770~1848 近世後期の折衷学派紀州藩儒学者。『毛詩補傳』『論語古伝』『周礼図説』等を著す。

45.桑山玉洲 1746~1799 近世中期の文人画家。紀州三大文人画家の一人。『画苑鄙言』『玉州画趣』『絵事鄙言』等を著す。

46.野呂介石 1747~1823 近世中後期の文人画家。紀州三大文人画家の一人。池大雅に学び、山水図や熊野三山の風景画に優れた作品を残した。

47.華岡隋賢 1760~1835 華岡青洲の別名。近世後期の医師で、世界で初めて全身麻酔による乳癌手術に成功する。

48.畔田翠山 1792~1859 幕末の紀州藩本草学者。西浜御殿の薬草園を管理。水産動物誌である『水族志』を始め、『古名録』等を著す。

49.天一坊 1699~1729 近世中期の修験者。将軍吉宗の御落胤と称し、浪人多数を集めるが、1729年死罪の上獄門に処せられる。

50.紀文 紀伊国屋文左衛門 ?~1734 近世中期の江戸の豪商。紀州のみかんを他船に先駆けて江戸に送って巨大な利益を得たと言われている。後、幕府の御用商人となる。

51.陸奥宗光 1844~1897 紀州藩出身。海軍操練所で勝海舟に師事し、坂本龍馬の海援隊に参加。1921年特命全権公使としてアメリカに赴任、日本最初の対等条約である日墨修好通商条約調印。その後、外務大臣として、1927年領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とした日英通商航海条約の締結に成功する。

52.奥先生 奥源次 旧制和歌山中学校第十四代校長。
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