『和中魂』書き下し(注釈付) PDFファイル
【監修】
松村巧(和歌山大学教授)
【編集委員会】(五十音順)
岸田正幸 北原正明 鈴木晴久 藤下法紹
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余、嚮(さき)に 我が校第四、五両学年生の為に、助字用法の講学に資すべきものを撰び、集めて一書と做(な)し、漢文必携と名づく。 頃(このごろ)、府瀬川司業*1、余に告げて曰く、
予業(すで)に、英文一篇を草し、以て、其の用法を明らかにす。 諸生徒に課し、方(まさ)に益する所多かるべし。 夫れ漢文は猶(なほ)英文のごときなり。
吾子向(さき)に生徒の與(ため)に漢文必携を撰ぶ。 宜(よろ)しく亦(また)一文を草し、以て其の用法を示すべきなり。 不者(しからずんば)報いる所は或いは少なし。
抑(そもそも)漢文の用法は多端なり。 一文の應(まさ)に能(よ)く盡(つ)くすべきに非(あら)ず。 今、之(これ)を短編に局(かぎ)らんと欲す、乃ち不可なる無からんや。
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況(いは)んや拙文の余の若(ごと)き者に於いておや。 然りと雖(いへど)も、其れ之(これ)無きよりは寧(むしろ)之有るに不若(しかず)や。 幼學に在りては、必ず少補無しとなさず。
[*「不爲必不無少補」の二つ目の「不」は衍字。正しくは「不爲必無少補」。書き下しは、「必ず少補無しとなさず」。] 敢えて応ぜざらんや。 廼(すなは)ち不文を顧みず、記して以てその責を塞ぎ、複(ま)た以て諸子を勗(つと)めしむ。
此によりて、滋(ますます)その志に勵(はげ)めば、。 愈(いよいよ)其の行を磋(みが)く。裨(おぎな)ふ有るを庶幾(こひねが)ふ。 其の行文用字に至りては、固(もと)より拘執(こうしつ)する所有るを免れず。
而して漢文の用法も亦(また)此(ここ)に盡きるに非ず。 姑(しばら)く其の梗概を挙げるのみ。読者その一斑を見て、全豹(ぜんぼう)を評することなかれば、
何の幸いか此(これ)に如(し)かん。 我が紀伊の國たるや、南海の要衝に方(あた)り、大瀛(だいえい)の浸潤する所なり。古(いにしへ)より、名賢碩学の世に見(あらは)る者、亦(また)少なからず。
吾人、生を此の地に享(う)けたれば、豈(あ)にその由(よ)る所を知らざるべけんや。 人、毎(つね)に言ふ有り。 山水の奇所、奇人を生ず。
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熊野の険は已に絶奇なる矣(かな)、光浦*2の景、已に明媚なる矣(かな)。天の恵、既に此(か)くの若(ごと)き者あり。 是(これ)天の名賢碩学を生ずる所以の者なる歟(か)。 余以謂(おもへらく)山水奇所は必ずしも奇人を生ぜずと。 山水は顧(かへっ)て奇人に依りて見(あらは)る。 豊の邪馬渓*3は山陽頼翁*4の筆を以て見(あら)われ、 伊の月瀬*5は拙堂齋藤子*6の文を待ちて知らる。 彼(かの)平々たる濃尾の原、實(まこと)に信長、秀吉二公を出すに非ず。 此に由りて之(これ)を見れば、名賢、碩学の世に見(あら)わるる所以の者は、亦(また)焉(いずく)んぞ、他の以(ゆえ)なからんや。
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惟(おも)ふに、神代逖(とほ)ければ、今、姑(しば)らく、諸を置く。 神武天皇*7の我が地に入りてより、既に己(すで)に二千五百八十有年なる所。
[*この「所」は不用。] 攻(せ)むる所即ち敗(やぶ)り、討つ所輙(すなは)ち服する。 名草戸畔*8の伏誅、高倉下(たかくらじ)*9の帰順、神剣の降下、金鵄(きんし)*10の霊瑞、其の古史に見ゆるは、盡(ことごと)く挙(あげ)るに遑(いとま)あらず。
神后の征韓*11、事類(おほむね)武内宿禰*12の献策に成る。 宿禰は信(まこと)に名草山下の人なり。 源判官義経の武勇、?(おほむ)ね、武蔵坊弁慶に關(かか)わる。而して弁慶は即ち熊野山中の人なり。
乃ち知る、名賢碩学の世に見(あらは)る所は、葢(けだ)し、文王を待ちて興る者なり*13と。 孟子曰く、故國とは、喬木有るを謂ふの謂ひにあらざるなり*14。
紀伊も亦(また)故國なり。
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畿甸(きてん)の咽喉を占め、皇居の屏墻(へいしょう)と爲る。 曩(さき)の昔、四國自(よ)り、京に詣づる者は、皆、海路紀伊に抵(いた)りて後、京に入る。
紀伊は便(すなは)ち南海の官路たるなり。是を以て、邦家の治乱興廃、幾(ほとんど)焉(これ)に關(かかわ)る。 以(おも)ふに、明光浦の夙(つと)に世に見(あらは)る所以、熊野三山*15の殊(こと)に皇室の崇敬する所と為る所以も亦(また)此に存す。
固(もと)より、夫(か)の僻陬(へきすう)諸国の比にあらざるなり。 果して然り、名賢碩学の見(あらは)る所以の者は、曾(すなは)ち、砥礪切磋(しれいせっさ)の然らしむる所なるか。
念(おも)ひて此(ここ)に到れば、孰(たれ)か之に處(しょ)する所以の道を憶(おも)はざるべけんや。 南北朝の時、國人は率(おおむね)南方に屬す。
南風競わざるに値(あた)り、猶(なほ)且つ古壘(こるい)を守り、共に斃れ倶に滅ぶも、悔い有ること無し。
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夫(か)の義有王*16および尊秀忠義の二王*17の挙の若(ごと)きは、以て観るべきなり。 降(くだ)りて、元亀天正の際、雑賀の徒は織田右府に抗(あらが)ひ*18、根来太田の黨は豊太閤に敵す*19。 蟷螂(とうろう)の斧、良(まこと)に隆車の隊(みち)に當(あた)るに足らず*20といへども、亦(また)?(なん)ぞ、國人のために気を吐く者にあらずと知らむや。 [*『文選』巻四十四、陳琳・爲袁?檄豫州文「欲以蟷螂之斧 禦隆車之隧」] 舊藩の祖、南龍公*21、允(まこと)に、英明の資を以て、茅土(ぼうど)を此の地に受く。、賢士を招き、碩儒を聘(へい)し、李梅渓*22に命じて、父母の状を書(しょ)せしめ、士大夫に矜式(きょうしき)する所あらしむ。 [*「士大夫に教えて矜式(きょうしき)する所あらしむ」と読むべし。] 是に於いて国風大いに振ひ、竟(つい)に南海の名藩と爲るに至(いた)る。 一日、俄(にわか)に雨ふる。 公、?樓(しょうろう)に登り、藩士の登城の状を瞰(み)る。 藪三左衛門*23なる者、食禄二千石の士なり。 私従を随(したが)え、蓑笠短袴、徒跣(とせん)にて過ぐ。
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公、侍臣に語りて曰く、 彼の三左衛門を見よ。 渠(かれ)は幼きより細川三齋*24の鞭撻を受く。 故に平生に在りて、戒心仍(なほ)此(か)くの若(ごと)し。
既にして小臣の某、傘を翳(かざ)し、屐(げき)を履きて来るに會ふ。 公、之を睨みて曰く、 予聞く、臣の勇怯(ゆうきょう)は以て主の賢愚を卜すべしと。
?(ああ)之の如きは何ぞや、我が家臣にして而して此のごとき怯者あるは、 寔(まこと)に我が家の恥なりと。 遂に其の職を免ず。 是に於いて士風頓(とみ)に改まり、人々舉げて自ら奮ふと云ふ。
当時の士風、誠に此(か)くの若(ごと)し。 宜(うべ)なるかな、紀藩の一時、士大夫の淵叢(えんそう)と稱せらるるや。 那波道園*25は、造詣頗(すこぶ)る深く、自ら任ずること已(はなは)だ重し。
言々都(みな)熱腸より、迸(ほとばし)る。 甞(かっ)て、公、市川甚右衛門*26邸に臨み、躬(み)ずから備前長光*27の刀を執り、死刑囚に試す。
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頭より股に至り、一刀両断するも、猶(なほ)倒れず。刀??(とうは)を以て之を衝(つ)くに及びて漸く倒る。 是、謂う所の立ち袈裟切りなる者なり。
道園顧みて曰く、如何。唐土に亦、此くの若き利刃あらんかと。 對へて曰く、 臣聞く、唐土にまた此れ有りと。 干将・莫耶*28、是なり。ただ、人君にして而も若(かくのごとく)為す所の者は、之れ桀紂*29と謂ふ。
夫れ、物を害して喜ぶは、此れ宜(ほとん)ど、禽獣すら爲さざる所なり。 啻(ただ)に人の悪(にく)む所のみならず、また人の賤しむ所なり。 未(いま)だ人君にて而も若(かくのごとく)爲す所の者有るを聞かずと。
公、色を変じ、城に還る。 夜に入りて、暴(にわか)に、道園を召して曰く、汝(なんじ)晝昼に言ふ所を思ふに、尤も理に適う。吾過てりと。 復(ふたた)び人を斬ることを爲さず。
?(ああ)当時に在りて、此の言を吐くは、自ら信ずることの篤き者にあらずや。何を以て能くせむ。
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公、少(わか)き時、気に任じ、粗なること憚(はばか)る所なし。 善く其の傅(ふ)安藤直次*30の言を用ひず。 直次は大力なり。常(かつ)て、公の両胯(りょうこ)を持ちて放さず。 公、之を奈何にすることも能はず。 老に及びて其の瘢痕由(なほ)存す。 侍臣、医に命じて治せしめんと欲す。 公曰く、然すること勿(な)かれ。 使(もし)此の瘢微(なから)むか。予、今日有るを得ざるなり。 吾をして、五十五萬石の封地を保たしむる所以の者は、洵(まこと)に此の瘢の爲(ため)の故(ゆえ)なりと。 君臣相(あい)砥礪(ていれい)すること此くの若し。 士風、奚(なん)ぞ、振起せざるを患(うれ)へんか。 有徳公*31、藩に在りし日、遺烈(いれつ)を紹(つ)ぎて、学を興し、士を導く。 是に於いて名賢碩学、先後して輩出ず。 公の学を興すや、祇園南海*32、蔭山東門*33と實(まこと)に其の任に当たる。
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南海は、博学多才にして、最も詩に長ず。 年十七、春分の日、午時より子牌に至るまで課するに、初めて五言の律一百篇を賦し、 大いに時の稱する所と爲る。
[*「子牌」、時牌、?報時辰的牙牌也。] 而。人或いは其の腹稿を疑ふ。 其の歳の秋分、再び百律を試すに、才思涌くが如く、俊語畳出(じょうじゅつ)す。
衆甫(はじめ)て嘆服す。 韓使の来る也、幕府、南海を接伴に遣(つか)はす。 一夕(いっせき)二十五首を賦し、韓使に贈るに、韓使、驚嘆すと云ふ。
書法は乃ち晋唐に逼(せま)り、書法は之を池大雅*34に傳ふ。 大雅、之を得て、南畫の泰斗と爲る。 又、高芙蓉*35の比(ため)に印法を講ず。終りて、嘗て藩侯に賜る所の印譜を賦與す。芙蓉これを得て、彫鐫家(ちょうせんけ)の鼻祖と爲る。
その他、余技の及ぶ所、洞簫 (どうしょう)を以て鳴らし、角力を以て勝り、 将に底止するところを知らざらんとす。 祇(ただ)に、斯學(しがく)のみならんや。
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猗歟(ああ)偉夫(いふ)なり。 儻(も)し、之を今日在らしめば、想うに、學界の大家、運動界の大選手なるべし。 然り而して、此の人の邸址(ていし)適(たまたま)我が校の西南の隅に在りし。
特に其の観雷亭*36なる者、奇を以て世に鳴る者なり。 顧みるに我が校の今日有るは豈に亦(また)偶然ならんや。 伊藤蘭嵎*37、初めて君侯の前に經を講ずるや、書に對して、講ずるを肯(がえん)ぜず。
侍臣、(しばしば)促すも、応ぜず。 謂(おも)へらく、伊(こ)の人は寒素に生長するや。未(いま)だ大人に説くに慣れざれば、則ち其の巍々然たるを視て、然るなりと。
候も亦(また)之を訝(いぶか)る。 既にして徐(おもむろ)に曰く、公は褥(しとね)に座す。聖人の書を講ずべからずなりと。 候、之を聞き、遽(には)かに褥(しとね)を去り、是に於いて初めて講説す。
音吐(おんと)朗暢(ろうちょう)なり。辯論明備なり。 聴者、僉(みな)嘆賞して曰く、真の儒者なりと。 六頁左 嗟(ああ)夫れ、今日の学者、此の気骨を存する者、果たして
諸(これ)有るや。 香厳、舜恭*38の二公、共に豊富に乗じ、民と偕楽す。 本居宣長*39を聘(へい)し、命じて國典を講ぜしむ。 大平・内遠・諸平*40、継いで興る。
天下の学を修むる者は、一時斯(こ)の門に聚(あつ)まる。於戯(ああ)亦(また)盛んならずや。 此の他、山井崑崙*41(こんろん)・山本東籬*42・山本楽所*43・仁井田南陽*44の若(ごと)き、各(おのおの)其の学を以て鳴る。
崑崙の七経孟子攷文(こうぶん)、楽所の論語補解・尚書正譌(しょうしょせいか)、南陽の毛詩補傳・紀伊國後風土記の如きは、今、猶(なほ)學界の寳とする所なり。
桑山玉州*45・野呂介石*46、亦(また)南宋画を以て世に稱せらる。 此の佗(ほか)、華岡隋賢*47の医道に於ける、畔田翠山*48の博物におけるがの若(ごと)きは、今畢(ことごと)く記するに遑(いとま)あらず。
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略して其の梗概を挙げるのみ。 在昔、人物の乏しからざること、亦(また)以て覩(み)るべきなり。。 天一坊*49の事は、余、之を謂ふを屑(いさぎよし)とせず、紀文*50の業もまた敢えて賞ぜず。 此の地の人にして、這(こ)れ衒気あるは、即ち此の浮気の根す所なり。非なる歟(や)。 吾人、返(かへ)りて之を恐るれば、諸子の之に傚(なら)ふを欲せざるなり。 維新の際、我が藩は幕府の親藩たるの故を以て、数(しばしば)世の嫌疑を招く。 逡巡遅疑(しゅんじゅんちぎ)し、克(よ)く其の志を成すこと能はずといへども、其れ、獨人(どくじん)を聘(へい)し、天下に先んじて兵制を革するが若(ごと)きは、邦家に貢獻する所、鮮(すくな)しと爲さず。 其の沈淪(ちんりん)して聞こゆることなきも、尚(なほ)陸奥宗光*51伯を出すに及ぶ。 今の政界に名を為す者は、殆ど陸奥伯に待ちて興こる者なり。
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爰(ここ)に方今の学徒を視るに、志気の沈滞、今日より甚だしきもの莫(な)し。 暖衣飽食し、歌ひ且つ戯れ、 素より学生たるの風度を亡(な)し。
就(たとひ)学に勤める者と雖(いへど)も、また利を見、害を避け、卒(つひ)に志を立つ所あることなし。 其の昔日の雄風を存する者、其れ、幾(いくら)あらんや。
嚮者(さきには)、絶奇の険を踏み、明媚の致を?(く)み、以て志気を養ふ者、今や、変じて歓楽鼓吹の郷と爲れり、逸遊興奢の巷(ちまた)と爲れり。
噫(ああ)これを如何(いかん)ともすること末(なき)し。 詩に云ふ、其れ何ぞ能(よ)く淑(よ)からん。 載(すなは)ち胥及(あひとも)に溺る、とは、
其れ斯(こ)の謂ひなるか.。 此くのごときにして已(や)まず。第(ただ)に昔日の雄風を存すること能はざるのみならず、遂(つい)に?燼し壊滅して、且(まさ)に救ふべからざらんことを恐る。
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惟(ただ)に山水の霊に叛(そむ)き、先賢昔儒の遺徳を辱むるのみならんや。 吾人、竊(ひそ)かに孔(はなはだ)懼る。 但し、我が校は、校運、駸々(しんしん)乎として、日に就(な)り月に進み、師弟は俛焉として各(おのおの)其の学を修め、欣々如として其の業に従ふ。 此、独り喜ぶ容(べし)と為すのみ。 今の校長、奥先生*52の來たるや、力を屈(つく)し、慮を竭(つく)して、学力及び体力を進むる所以の道を謀る。 未だ数年ならずして、図書館成れり。運動場成れり。今又、遊泳池成れり。 足りて[*「充分に」の意味。]曾(すなは)ち校庭を出ずして、以て馳走すべきなり、 球を弄(もてあそ)ぶべきなり、以て遊泳すべきなり、以て剣を磨くべきなり、以て武を練るべきなり。以て未だ曾(かっ)て覯(み)ざる書を讀むを得べきなり。 況んや短艇の明浦(めいほ)に浮かぶ有るにおいておや。 且つ諸先生の鋭意、学を講じて諸子を率いる有り。 其の学力体力、當(まさ)に以て昔人に倍?(ばいし)すべし。
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此くの若(ごと)ければ、學は即ち加進せず、體はもし加強ぜざれば、將(は)た何の面目ありてか、父兄に見(まみ)えんや、縣人に對せんや。 却(しりぞ)きて懐(おも)ふに、明治三十六年十月八日、今上、東宮*53に在らせらるるの日、親しく我が校を臨まれ、兵式教練の台覧あり。
大正十一年十二月二日、東宮*54、臨啓せられ、授業並びに野球の台覧あり。 野球の台覧を辱(かたじけなく)するは、葢(けだ)し我が校を以て嚆矢(こうし)と爲す。
嗚呼(ああ)何のぞ光栄かこれにしかん。 苟(いや)しくも我が校に学ぶ者、また烏(いずく)んぞ其の由る所を思はざるべけんや。 嗚呼(ああ)紀伊の國たるや、南海の要衝に方(あた)り、大瀛(だいえい)の浸潤する所、山水の奇の以て志気を養ふべき者あり。
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名賢碩学の流風遺跡、また以て吾人の範と為すに足る。 而して國家正(まさ)に人材を要(もと)むるの秋(とき)なり。 丈夫會(かなら)ず應(まさ)に知己あるべし。
今にして而も興きざれば、将(はた)何れの日をか待たん。 夫子曰く、我、未(いま)だ力の足らざる者を見ずと。 孟子曰く、文王を待ちて後に興こる者は、凡そ民也(なり)。夫れ豪傑の士の如きは文王無しといへども猶(なほ)興こると。
凡そ我が校に学ぶ者は皆家國に志あるの士なり。 盍(なん)ぞ、奮励一番、所謂(いはゆる)和中魂を發揮し、以て先賢昔儒の遺風を輝かさん。 識らず、一千の健男児、誰(たれ)か之を聴きて振起する者ぞ。
[*「振起」は「不振起」に作るべし。→「誰(たれ)か之を聴きて振起せざる者ぞ」] 吾人、古(いにしえ)を瞻(み)て、今を思い、感慨の至るに堪(た)へず。
故に名賢碩学の興こる所以の者を道(い)ひ、因りて以て諸子を勗(はげ)ます。 縱 (よし)んば、古人をして復(ま)た生ぜしむるも、須(すべから)く吾言を変へざるべし。
九頁左 吾人、豈(あ)に漫然と古(いにしえ)を謳ひて今を譏(そし)らんや。乃ち校歌を誦して曰く
海南茲(ここ)に幾春秋
千古竹帛(はく)花香留む
清風名節、我が表と爲し
自助の学園凝(こ)りて流れず
白菊郁々(いくいく)吹上の里
菊花の黌児、菊もて冠と爲し
和歌浦頭、濤(なみ)は碧に砕け
濤と共に闘う健児団
健児の意気天を衝けり
時世の風浪、また何ぞ遮らん
克己の影浮ぶは水月に似たり
希望の色光、色は花の若し
清流竭(つ)きず、紀川の水
蒼翠(そうすい)改まらず、伏虎山
晨夕懈(おこた)らず吾が學び
自彊して息(や)まず心もまた艱(かた)し
十頁右
黒潮蕩々と奔馬のごと駛(は)せる
古聖の夢、我が前程を通ず
義を見て勇、只吾のみあり
風浪時に傳ふ、神代の聲
海南茲(ここ)に群がる一千の子
進取行路は素より形なし
千草萬草、花は綾錦
名声永く薫る、自助の庭
大正十四年八月
多紀仁識
注(人物、地名等)
1.府瀬川司業 府瀬川熊司 旧制和歌山中学校の英語教師。「司業」は先生の意味。『WACHUPLAN FOR ENGLISH TEACHING』を著す。
2.光浦 和歌浦のこと。和歌浦一帯は「弱浜」(わかのはま)と呼ばれていたが、聖武天皇が景観の美しさから「明光浦」(あかのうら)と改めたとされている。(『続日本紀』より)
3.豊の耶麻渓 大分県中津市にある山国川の上・中流域及びその支流域を中心とした渓谷で、日本三大奇勝や新日本三景の一つに選ばれている。1923年(大正12年)に名勝に指定され、1950年(昭和25年)に耶馬日田英彦山国定公園に指定された。
4.山陽頼翁 頼山陽 1780~1832 江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人。主著に『日本外史』がある。『耶馬渓図巻記』は、斎藤拙堂の『月瀬記勝』と並んで紀行文の双璧とされている。
5.伊の月瀬 現在の奈良市月ヶ瀬に当たる。奈良県の北東端に位置し、村内を名張川が東西に流れ、渓谷の様相を呈している。梅の名所であり、見頃には多くの観光客が訪れる。2005年、山辺郡都祁村とともに奈良市へ編入されたことから消滅した。
6.拙堂齋藤子 斎藤 拙堂 1797~1865 幕末の朱子学者。紀行文が得意で、『月瀬記勝』は月ケ瀬を梅の名所にした。また、後南朝の名付け親としても知られている。
7.神武天皇 日本神話に登場する人物で、『古事記』、『日本書紀』では初代天皇とする。実在は確認できない。
8.名草戸畔 名草邑(現在の和歌山市)の統治者であったが、神武東征伝承において神武天皇に殺害されたと伝えられる。日本書紀に「軍至名草邑 則誅名草戸畔者〈戸畔
此云妬鼙〉」(軍が名草邑に着き、そこで名草戸畔という名の者〈戸畔はトベと読む〉を誅殺した。)とある。(「巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年六月」)
9.高倉下 『古事記』『日本書紀』ともに、夢で見た建御雷神の神託により、高倉下が神武天皇に霊剣布都御魂(ふつのみたま)を献上したところ、熊野の神の毒気によって眠らされていた一行がたちまち目を覚ましたという伝説を載せている。伊勢湾地域に拠点を置いた尾張氏の始祖、天香語山命の別名ともいう。
10.金鵄 金色のトビ。神武天皇がナガスネヒコと戦っている際に、天皇の弓に止まり、その体から発する光でナガスネヒコの兵たちの目をくらませ、天皇の軍に勝利をもたらしたとされる。
11.神后の征韓 神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争のこと。
12.武内宿禰 古代,大和朝廷初期に活躍したといわれる伝承上の人物。「記紀」によれば,孝元天皇の子孫,日本最初の大臣,神功皇后の新羅征伐に従軍し,景行,成務,仲哀,応神,仁徳の天皇に仕え,二百数十年間,官にあったという。
13.文王を待ちて興る者なり 『孟子』「尽心 上 十」
14.孟子曰く、故國とは、喬木有るを謂ふの謂ひにあらざるなり 『孟子』「梁惠王章句下 七」
15.熊野三山 熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称
16.義有王 後村上天皇第六の皇子説成親王の御子、円満院円胤と伝えられ、還俗名を「義有王」と称し、1444年7月、時の将軍足利義成に抗して紀伊国北山にて挙兵
17・尊秀忠義の二王 尊秀王は後南朝の最後の指導者、忠義王はその弟
18.雑賀の徒は織田右府に抗(あらが)ひ、根来太田の黨は豊太閤に敵す。1577年の信長による雑賀攻め、1585年の秀吉による紀州攻めを指す。
20.蟷螂(とうろう)の斧、良(まこと)に隆車の隊(みち)に當(あた)るに足らずといへども、亦(また)詎(なん)ぞ、國人のために気を吐く者にあらずと知らむや。『文選』巻四十四、陳琳・爲袁绍檄豫州文「欲以蟷螂之斧
禦隆車之隧」
21.南龍公 紀州藩初代藩主徳川頼宣のこと。謚(おくりな)が南龍公、院号が南龍院。
22.李梅渓 1617~1682 近世前期の朱子学派藩儒学者。1672年『徳川創業記孝異』を完成し、幕府に献上し、葛城山麓の梅原村(現和歌山市)を与えられ、梅渓と号した。
23.藪三左衛門 1596~1649 藪正利 近世前期の紀州藩の家臣。肥後の生まれで細川忠興に仕えたが、後、紀州藩に仕え、城代格、大寄合を勤める。
24.細川三齋 細川忠興、1563~1645 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代藩主となる。
25.那波道円 1595~1648 那波活所 近世前期の朱子学派紀州藩儒学者。林羅山、堀杏庵、松永尺五とともに。藤原惺窩門の「四天王」の一人
26.市川甚右衛門 1588~1664 市川清長 近世前期の紀州藩家臣。頼宣の供として紀州入国。後、城代を勤める。
27.備前長光 鎌倉時代後期の備前国(岡山県)長船派(おさふねは)の刀工。長船派の祖・光忠の子とされる。国宝の「大般若長光」をはじめ、古刀期においてはもっとも現存在銘作刀が多い刀工の一人
28.干将・莫耶 中国の剣の制作者。夫婦で剣を制作し、その名を冠した剣は名剣とされている。
29.桀紂 古代中国の、夏(か)の桀王と殷(いん)の紂王。ともに暴虐な君主。転じて、暴君のこと。
30.安藤直次 1554~1635 近世初期の紀州藩付家老。田辺領三万八千八百石
31.有徳公 1684~1751 徳川吉宗。紀州藩五代藩主、後、徳川幕府八代将軍
32.祇園南海 1676~1751 近世中期の朱子学派紀州藩儒学者。紀州三大文人画家の一人
33.蔭山東門1669~1732 近世中期の古義学派紀州藩儒学者。伊藤仁齋に師事。1713年吉宗の講釈場創設時に祇園南海とともに総裁に抜擢される。
34.池大雅 1723~1776 近世中期の文人画家、書家。与謝蕪村とともに、日本の文人画(南画)の大成者とされる。
35.高芙蓉 1722~1784 近世中期の儒学者、篆刻家、画家。日本における印章制度を確立。印聖と讚えられる。
36.観雷亭 祇園南海の邸宅か、そこにあった建物の名か?祇園南海の号の一つに「観雷亭」がある。
37.伊藤蘭嵎 1694~1778 近世中期の古義学派紀州藩儒学者。伊藤仁齋の第五子。「四経」の解釈を完成。「大学」を容認する「大学是正」を著す。
38.香厳、舜恭 香厳は第九代藩主治貞、舜恭は第十代藩主治富の諡(おくりな)
39.本居宣長 1730~1801 近世中期の国学者・文献学者・医師。荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人」の一人
40.大平。内藤。諸平 大平は本居宣長の養子、内藤は本居大平の婿養子、諸平は加納諸平、大平の弟子
41.山井崑崙 1690~1728 近世中期の徂徠学派西条藩儒学者。『七経孟子攷文』32巻を著し、幕府、紀州藩、西条藩に献上、中国。清の『四庫全書』にも収録された。
42・山本東籬 1745~1806 近世後期の折衷学派紀州藩儒学者。藩校「学習館規則」を定め、『紀伊続風土記』編纂にあたった。
43.山本楽所 1764~1841 幕末の折衷学派紀州藩儒学者。山本東籬の門人。『孝経集伝』『偽書説』等を著す。
44.仁井田南陽 1770~1848 近世後期の折衷学派紀州藩儒学者。『毛詩補傳』『論語古伝』『周礼図説』等を著す。
45.桑山玉洲 1746~1799 近世中期の文人画家。紀州三大文人画家の一人。『画苑鄙言』『玉州画趣』『絵事鄙言』等を著す。
46.野呂介石 1747~1823 近世中後期の文人画家。紀州三大文人画家の一人。池大雅に学び、山水図や熊野三山の風景画に優れた作品を残した。
47.華岡隋賢 1760~1835 華岡青洲の別名。近世後期の医師で、世界で初めて全身麻酔による乳癌手術に成功する。
48.畔田翠山 1792~1859 幕末の紀州藩本草学者。西浜御殿の薬草園を管理。水産動物誌である『水族志』を始め、『古名録』等を著す。
49.天一坊 1699~1729 近世中期の修験者。将軍吉宗の御落胤と称し、浪人多数を集めるが、1729年死罪の上獄門に処せられる。
50.紀文 紀伊国屋文左衛門 ?~1734 近世中期の江戸の豪商。紀州のみかんを他船に先駆けて江戸に送って巨大な利益を得たと言われている。後、幕府の御用商人となる。
51.陸奥宗光 1844~1897 紀州藩出身。海軍操練所で勝海舟に師事し、坂本龍馬の海援隊に参加。1921年特命全権公使としてアメリカに赴任、日本最初の対等条約である日墨修好通商条約調印。その後、外務大臣として、1927年領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とした日英通商航海条約の締結に成功する。
52.奥先生 奥源次 旧制和歌山中学校第十四代校長。